タウトが撮ったニッポンBRUNO TAUT:A Photo Diary in Japan
桂離宮を「発見」したタウトの写真は、
渋谷のハチ公も、富士山も、ダルマ市も、
ぜ~んぶピンボケ?!
昭和8 年から11 年までの日本滞在中に、ブルーノ・タウトが撮影した貴重な写真や絵はがきなど130 点と新訳の日記を紹介。小さなカメラ「ヴェス単」で渋谷のハチ公から桂離宮、おんぶ姿まで、果敢に被写体に挑んだタウトのまなざしを探る。
「タウトとムサビとクローバー」武蔵野美術大学の前身・帝国美術学校の記録によると、昭和11 年度教員組織「実習担当教員・図案工芸科」に、原弘や山脇巌とならんでブルーノ・タウトの名前が残されている。タウトはほんとうにムサビの先生だったのだろうか?
日本での暮らしを「建築家の休暇」と自称したタウトが、「残念だが、日本に退屈しているとしかいいようがない」と心情を吐露したのは昭和10 年5 月30 日の日記。どうやら日本に飽きてしまったらしい。その年の秋、日記に初めて「帝国美術学校」が登場している(翻訳は篠田英雄氏、原文では「Akademie」とだけ書かれている)。
日記によれば、9 月3 日に清水多嘉示と打合せの結果「月に2 回、2 時間ずつ出講」という条件で「私は多分10月から日本の教授になるだろう」と書いている。しかし10 月からタウトが「教授」になった形跡はない。
約3 カ月後の12 月6 日、清水と「講義の件を具体的に取りきめた」。そして9 日、明け方まで眠れず催眠薬を飲んだタウトは気分良く起きることができず、結局この講義を当日キャンセルしてしまったらしい。
昭和10 年という年は、帝国美術学校にとっては大揺れの年であった。5 月に「同盟休校事件」が発生し、9 月に学校は分裂。ここで多摩帝国美術学校(いまの多摩美術大学)が生まれ、ムサビと袂を分かつことになる。学内が落ち着き、帝国美術学校が授業を再開したのは11 月。もしもタウトの講義が実現していたら……。
タウトの遺品資料には、本書が紹介したアルバムの他に、手書き原稿や手帳が含まれている。資料の調査中、ふと開いた手帳のページ、昭和10 年の終わりには「Tekoku Bisotsu gako」とタウト特有の癖字とともに、四つ葉のクローバーが丁寧にはさまれていた。
登録情報
編者 | 酒井道夫・沢良子 |
---|---|
執筆者 | 酒井道夫・沢良子・平木収 |
ISBN | ISBN978-4-901631-75-4 C0072 |
体裁 | A5 判変型 160頁 |
刊行日 | 2007年03月01日 |
ジャンル | 写真・映像 |
正誤表 | 初版1刷 |
目次
タウトの遺品=沢良子
タウト日記アルバム=ブルーノ・タウト
タウトが遺した写真アルバムの読み方=平木収
戦前昭和ヴィジュアル時代の『ニッポン』=酒井道夫
タウトが見たもうひとつのニッポン=沢良子