天王寺の妖霊星を見ばや(てんのうじのようれいぼしをみばや)。
太平記第5巻4「相模入道田楽を好む事」にこういう文が出てきます。
頃は鎌倉幕府末期、南北朝前夜。田楽と闘犬に耽った北条高時(相模入道)が京都と南都(奈良・興福寺)の田楽者を招いて連日宴席を催したときのこと。
鳶のような顔をしたもの、羽のあるものなど異形のものたちが「妖霊星を見ばや」と言った。それを女官が聞いた。おそろしや。というくだりなのですが、
この妖霊星について、「玄玖本では〈や よろぼし〉と記述されている」という注があり、「天王寺のよろぼし」なら、能の、四天王寺を舞台にした弱法師(よろぼうし)のことではないかと考えた次第です。
弱法師は説教節の「しんとく丸」を題材にしたお話で、寺山修司も「身毒丸」という戯曲を書いてますが、なんでこんなことを書いているのかというと、13〜14世紀当時の芸能事情が垣間見えて面白いからです。
最も早い段階で日本に渡来したと言われる謎の「伎楽」から、散楽、猿楽(新猿楽)、田楽、さらに能楽へ。このあたりの芸能史の変遷はダイナミックでまた謎に満ちてもいて知れば知るほどワクワクするジャンルです。
たとえば散楽には物真似、踊、曲芸、軽業、奇術、幻術、傀儡師、人形の芸があったそうで(このあたりは今岡謙太郎著『日本古典芸能史』がとても読みやすくわかりやすいです)、
北条高時が耽った田楽は散楽・猿楽の影響を強く受け、曲芸・軽業も含まれていたそうなので、闘犬といっても、今とは違う見せ物だったかもしれないですね。
当時の曲芸・軽業がどんなものだったのか。『日本古典芸能史』にも画像が載っているのでぜひご覧ください。かなり面白です。
伎楽面の「迦楼羅」の画像も載っていますが、これはまさに鳥の顔。女官が聞いたという「鳶のような顔をした異形のもの」も、こうした面を付けた「田楽者」だったんじゃないのかね、とあてどなく考えるのも楽しいかと。
編集:t:eeh
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