『保田龍門・保田春彦往復書簡 1958-1965』は
いよいよ校正の段階となり、さまざまな最終調整に
入っています。
読んでいてどうもひっかかる、わからない箇所の
1つに、龍門先生の
「フェノサ氏のことを柳亮のÇa et làで読み直した。」
というフレーズがあり、雑誌に連載されたコラムだろう
と推測して、図書館で当時の『みずゑ』『アトリエ』を
ひっくり返してみたが見つからない。気になる。
ネットであれこれ検索するが行き当たらない。
これは手強い・・・ついにこのあたりに詳しそうな先生に
メールでうかがってみたが、どうもわからない。
すると、K子先生が
「雑誌ではなく、1949年刊行『あの巴里この巴里』のこと
ではないか?」
と知らせてくださった。ちょっと興味があったのと、
手に届く価格だったので即ネットで購入。
翌日に届いた(この早さには恐れ入るな〜)
ジャケットをはがすと、表紙に
「 Ça et là par Yanagi」
まちがいない、これだ! ページを繰ってみると、
柳が彫刻家フェノサを訪ねるくだりがすぐにあった。
「クウポール」のすぐ近くの、ゲーテー街の安下宿に
住んでゐた。……それは物置に近いものだった。」
貧しい暮らしながらも、そこで制作中の優美な少女の裸像に
柳は見とれ、そこで南京虫に五つも六つも噛まれる。
こんな話が満載。舞台は1920-30年代初頭の巴里。
これを読んだ日本の若き芸術家の卵たちは、
どれだけ仏蘭西に、巴里に憧れたことだろう!
そう言う意味では「罪作りな本」とも言えるのだが、
龍門はその時代に実際に巴里にいた人なので、
懐かしく読んだのだろうと思う。
初版は1936年。龍門が手紙を書いたのは1958年。
自らの留学から37年を経て、おなじく巴里に在る息子に
せっせと手紙を書く父。それに応える子。
不思議な親子である。不思議な本ができる。
[編集:ハムコ]
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